ナポレオンの戦争でクラウゼヴィッツが「戦争芸術の粋」と称賛した1805年の「アウエルシュタットの戦い」の時にイギリス首相をしていた小ピット。

 彼の功績は、アウエルシュタットの戦いとほぼ同時期に海戦においてフランスに圧倒的な勝利を挙げた「トラファルガーの海戦」を指揮したネルソンをみいだしたことである。ただ、小ピット自身もその戦争の前に一時フランスと休戦していた(1802年アミアン和約)際には、海岸線にコルシカの伝統的な防御塔(マーテロー塔)を採用したり陸軍海軍の再編を行ったり下地を作っている。

 但し、忘れてはいけないのが、この時代にマンチェスターなどで産業革命が起り、ロバート・オーウェンなど大工場経営を成功しつつも労働環境を見直した動きがあったことも重要である。

■①首相就任■

 小ピットは、もともと1700年半ばあたりににインドをイギリスの支配下に収める頃、インドで一旗揚げた曾祖父の財から父・大ピットが首相となった家系である。

 小ピットが首相になった原因は、アメリカ独立戦争が1783年に負けるという形で終わり、支持していたホイッグ党が内部分裂し始めたことから始まる。王位を重んじる保守的なトーリー党のフォックスが有力であったが(※事実は小ピットがトーリー党でフォックスがホイッグ党である。そのためこの記述はなんらかの混乱がある(後述))、時の王ジョージ三世の支持は小ピットになり、24歳という驚きの若さで首相になる(因みにケンブリッジ大学も14歳という驚きの若さで入っている)。

 最初は若さゆえに嘲笑されていたが、アメリカ独立戦争で領土を失った代わりに得た財でイギリス国内の経済が沸いたのを機に、インドとの関係を法律で改めて考えなおし、更に国債や所得税の在り方を見直すことで、アメリカ独立戦争でたまった政府の借金を大幅に減らしたことで評価され始め、最終的には17年の長期政権になっている。

■②フランスとの戦争■

 小ピットが首相に就任した1784年頃には、フランスの革命の政治的経過や人間の解放などを謳うとフランス派というレッテルを貼られることもあり、ピットは1789年のフランス革命のときにも特には直接的な行動に出なかった。

 それよりも、対ロシア対策でプロイセン・オーストリアと三国同盟を結び、結果的にフランスとの牽制にしたりしてパワーバランスを図る方に動いていた(1792年プロイセン・オーストリアがフランス革命政府に宣戦布告しても参加を拒んだ。)。この三国同盟は結局ロシアとも和解して1792年に四国同盟になっている。

 ただ、1793年フランス革命政府がベルギーに侵入し、オランダに圧力を加え、イギリスの植民地や伝統的な貿易を脅かすような行動を移したときに戦争の遂行に専念した(また小ピットはこれに乗じてオランダのフランス従属国になった植民地ケープタウンなども攻撃し獲得してる)。

 それからは、国内の過激派などを抑え込む政策を行い、更に企業に対しても資本の方を優先して、労働組合などの労働側と対立している(そもそも1780年代半ばにアダム・スミスの学説を容れてフランスとの貿易協定を小ピットが行い、フランスにイギリス製品がなだれ込んだのがフランス革命の遠因となっている。国債の清算など、資本の拡大が国力に繋がると考えていたのではないだろうか。だからこそ、ナポレオンは大陸封鎖をしてイギリスの貿易を封鎖したとも考えられる。)。

 しかし、その後も対フランスのパワーバランスを図るためにアイルランドの暴動を抑え、ユナイテッドキングダム&アイルランドになる連合法を1800年可決し、1801年にはアイルランドに配慮してカトリックに対して制限を与えていたものを減らす提案したものの国王ジョージ3世の反対があり、首相を一度辞任している(国王にとっては王の権威を脅かすことや、当時国王は持病で精神が不安定だった)。

 そして、一時首相を降りたとき、丁度1802年にアミアンの和約が結ばれるが、小ピットは対フランスを想定し軍事を固める行動をしている。

 その後、結局フランスとの和約は破棄され、オーストリア・ロシアなどと連合して戦争を行われ、1805年にネルソン艦隊のトラファルガーの海戦でフランスに海戦で圧倒的勝利を挙げるも、オーストリアの軍事要所ウルムが陥落され、更にアウエルシュタットの戦いでロシア軍を中心に大打撃を受け、結局失意のまま首相を辞任することになる。その後持病もあり翌年死去している。

■③産業革命との関係■

 小ピットの熱烈なトーリー派の人にロバート・ピールがいる。二代目ロバート・ピールの方が現在では有名だが、父ピールは1799年には億万長者リストに載ったほど財を成した人だった。1769年にアークライトが水紡機(water frame)を発明し、1780年付近に早くも父ピールは採用しマンチェスターで工場を経営し大成功する。

 1790年には政治家にもなるが、同じ頃マンチェスターで成功し始めていた人としてロバート・オーウェンがいる。ロバート・オーウェンはエンゲルスによって空想社会主義の分類に入っているが、エンゲルス自身も非常に実務的な方法から具体的に構想し、福祉のある工場経営を行ったと評価している。

 そのロバート・オーウェンが1793年ごろに関わることになる学術団体「The Litarary and Philosophical Society」において、紡績工場において劣悪な環境で働く子どもの弊害を議論し始めていた。父ピールもその流れを受けて1802年に紡績工場の子どもの環境と教育を考える法律を可決している(ただこの時期は小ピットが一時首相を降りている時期であるが…フランスとの和平で一時的に国内の環境改善を考えた時期なのかもしれない)。

 そして、後に父ピールは小ピットが亡くなった後ではあるが、1815年にはロバート・オーウェンの要請を受けて紡績工場における子供の労働時間を決めて、更に1819年には「The Cotton Mills and Factories Act」を可決させている。

 つまり、小ピットの時代にナイチンゲールに繋がる衛生学の流れや、産業革命における福祉の問題の議論が始まったということが読み取れると思う。

※『英国史』アンドレ・J・ブールドや『イギリスメイ宰相物語』小林章夫や英語版・日本語版Wiki参照

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